しかし、これらはいずれも王の居所である宮(みや)にすぎず、国家の中心都市である京(みやこ)には至っていなかったと考えられている。
山根徳太郎らの調査によって、太極殿跡が発掘されるなど飛鳥時代における
難波宮の存在は確認されているが、都市域である京域の存在は認められていない。
奈良時代前期の
726年(
神亀3)、
聖武天皇が
藤原宇合に命じ、難波宮に瓦葺の離宮を造営した。
744年(
天平16)には
恭仁京から難波宮への遷都が実施された。この時期に、難波宮の周辺に京域、すなわち難波京も造営されたと考えられている。発掘調査によれば、奈良時代の後期難波宮周辺には正東西南北方位(正方位)にのびる溝が広い範囲で多数検出されており、建物跡も正方位に築かれたものが多い。さらに、溝からは墨書土器を含む多数の土器が出土しており、相当数の人間が生活していたことが想定されている。また、官人へ宅地を支給したとする記録もある(『
続日本紀』)。これらのことから、難波京の存在はほぼ確実視されている。