天皇が幼少または病弱などのために大権を全面的に代行する
摂政とは異なり、関白の場合は最終的な決裁者はあくまでも
天皇である。従って、
天皇と関白のどちらが主導権を取るとしても、
天皇と関白が協議などを通じて合意を図りながら政務を進めることが基本となる。大抵の場合、
摂政が引き続き関白となる例が多い。また、慣例として
摂政関白は「天皇の代理人」であるため、
天皇臨席などの例外を除いては、
太政官の会議には参加しない(あるいは決定には参与しない)慣例があり
[南北朝時代の近衛道嗣(北朝関白)が、後光厳天皇より貞治改元の奉行を命じられたときに、「為摂関之人不得行公事、譲一上於次大臣已為流例、以之思之公事奉行不可庶幾者也(摂関は公事を執行せず、次席の大臣に一上の地位を譲る慣例となっている。従って摂関が公事を奉行することはあってはならない)」と主張して辞退している(『愚管記』貞治元年7月7日条)。]、
太政大臣・
左大臣が
摂政・関白を兼任している場合にはその次席の大臣が太政官の首席の大臣(
一上)として政務を執った
[ただし、関白の政治的立場の位置づけが十分確立されていなかった平安時代中期には、藤原基経や頼通のように関白在任のまま一上を兼ねたり太政官の政務を執った例もある。また、江戸時代に入ると関白が会議を主宰するようになる。]。ただし、関白は
内覧の権限(後述)を有しており、天皇と太政官の間の政治的なやりとりを行う際には関白が事前にその内容を把握・関与する
[『政事要略』には初代関白である藤原基経(太政大臣)の職権について、「其万機巨細、百官惣己、皆関白於太政大臣、然後奏下」と記し、政務全般において公卿以下百官がその職務を守り、太政大臣(基経)に関白(関り白す=報告・了承)を得た上で奏上・命令させたとしている。]ことで国政に関する情報を常に把握し、天皇の
勅命や勅答の権限を直接侵害することなく天皇・太政官双方を統制する権限を有したのである。これを
摂関政治という。
語源は天皇の言葉に対し、関(あずか)り白(もう)すことから来ている。関白の語は、中国
前漢の
宣帝が、上奏はすべて実力者
霍光が「関(あずか)り白(もう)す」ようにした故事に由来する。これは、霍光の権勢を恐れた宣帝が、政務不行届を口実に霍光により廃位されることを避けるためであったと言われる(関白の別名の一つ「
博陸」は、霍光が‘博陸侯’であった事に由来している)。なお、関白職を子弟に譲った前関白を
唐名で
太閤と呼び、太閤は出家すると
禅閤と呼ばれる(禅譲太閤の略)。
・
陽成天皇の
元慶4年
11月8日(
880年12月13日)…『
公卿補任』によって採用されている説で、陽成天皇の成人と同時に関白になったというものである。『公卿補任』が公卿の経歴に関する基本資料であるためにこの記述をそのまま採用する書籍は多い。ただし、当時は国家による正史(『
日本三代実録』)が編纂されていたにも関わらず、当該期日に関白就任に関する記事が全く見られないのは不自然であること、天皇が成人した際に関白に転じる慣例が成立したのは60年後の
朱雀天皇成人時の
藤原忠平の時と考えられていることから、平安時代史の研究家の多くが後世の人が当時の慣習を知らずに書き加えたもので、事実ではないとする説を採っている。