1925年
全羅南道荷衣島(現在の
新安郡)生まれだが、本貫はこの地域と対立していた慶尚道の
金海市。1943年木浦公立商業学校(現全南第一高校)卒業、慶煕大学大学院経済学科2年課程修了。運送業を経て、
1954年の
総選挙で国会議員に初挑戦するも落選。
張勉に引き立てられ、
民主党スポークスマンを務める。以降も、当時の
李承晩大統領の政策に反対する姿勢で活動したが、
1959年、
1960年と立て続けに落選を経験した。
1961年に補欠選挙で国会議員へ初当選しているが
朴正煕による軍事クーデターにより無効となっている。その後は野党政治家として活躍し、
1963年と
1967年の
第6代、
第7代、国会議員選挙で連続当選し、とうとう
1970年9月に
新民党の大統領候補に指名される。翌
1971年の
大統領選では現職の朴正煕に97万票差にまで迫った。この大統領選の直後、交通事故を装った暗殺工作に遭い、
股関節の障害を負うことになる。
朴正煕による
十月維新の後は日米両国に滞在しながら
民主化運動に取り組んだ。
1973年(昭和48年)
8月8日、東京に滞在中、
ホテルグランドパレスで何者か(複数)によって拉致され、行方不明となった。この犯人たちは、謀殺を意図した
韓国中央情報部 (KCIA) であった事が、後に判明するが、拉致後、日本から出港した船の上で、殺害直前の状況になった際、軍用機が船の上を旋回し、殺害を中止させている。その後、ソウルの自宅に現れ、ソウルで軟禁状態に置かれた(
金大中事件)。
1976年3月には
尹{{langらと共に「
民主救国宣言」を発表、逮捕され懲役判決を受けるも、
1978年3月に釈放される。
1980年2月19日には公民権を回復・政治活動を再開するが、
5月18日に再び逮捕。これが原因となって
光州で起きた民主化要求のデモを軍部が鎮圧し、流血の惨事となる(
光州事件)。このため
軍法会議で首謀者として死刑判決を受ける。このことに対して、当時の
鈴木善幸首相は、11月21日に崔慶禄駐日大使と会談し「日韓親善からみて、金大中の身柄に重大な関心と憂慮の意を抱かざるを得ない」と発言し、その旨を
全斗煥大統領に伝達するよう要請した。この事を受け、
朝鮮日報は11月25日付の紙面で、鈴木発言を「内政干渉である」と批判した。しかし、次第に死刑判決に対する国際的な批判が強まり、
1982年1月23日に閣議決定により無期懲役に減刑される事が決定し、
12月23日に米国への出国を条件に刑の執行を停止される。