1969年、四川省革命委員会財政貿易経営管理組副組長、四川省財政局副局長、財政庁長などを歴任。当時四川省党委書記だった
趙紫陽に抜擢され、1980年に趙が国務院総理に就任した際中央入りする。中央党校で幹部育成プログラムに入り(
尉健行と同期)、1年後に国務院副秘書長として経済を担当する。1983年からは国務院秘書長。、1985年9月(第12期5中全会)で政治局委員、中央書記処書記。まもなく農業、商業貿易、経済特区担当の副総理。
1987年の第13回党大会では万と共に、常務委員入りが長老たちと常務委員の間で考慮されたが、
姚依林と
陳雲が難色を示したため、推薦した?小平も提案を引っ込めざるを得なかった。?小平は中央委員の得票順に多い者から7名を常務委員に選出するというアイデアを提案したことが、2004年に田紀雲本人から明かされた。また総書記代理を務めていた趙紫陽は党大会で総理を辞することを海外の記者に告げており、後継指名は自分より若い者と断言していた。副総理の内、趙紫陽より若いのは李鵬と田紀雲だったが、前述のやり取りもあり李鵬が総理に就任した。
趙紫陽失脚後も道連れになることはなく、保守派が台頭するなか副総理を続けるが、1992年の
南巡講話以降改革派が圧勝してからは保守派を幾度と無く批判した。4月25日、中央党校で「中国の農業と農村の改革と発展問題」の報告を行い、「指導部が左の思想の呪縛から抜け出すことが大きな課題である。そうしなければ改革解放はただの空手形だ」「機会があれば飛び出てきて改革開放に反対する人たちに警戒が必要だ。彼らが国家の大権を握れば、国家と人民に対する災難だ」と発言し、会場は拍手が鳴り止まなかったという。