最初はどうしても、柔道の癖が取り口にも出たが、師匠の指導と兄弟子
琴ヶ?との稽古で、右四つの型を会得。
1962年7月場所に、
十両に昇進し、その場所を優勝。4場所目の
1963年1月場所でも十両優勝を果たして翌3月場所に入幕。
1964年1月場所、新
三役(小結)の場所6日目に、横綱
柏戸との取組で土俵上で足首を骨折する負傷をして途中休場。翌場所も全休で、十両まで陥落の憂き目に遭う(。当時の中継でも「琴櫻、立てません」とアナウンスされ、傍目にも大怪我と分かる負傷であった)。以降は、回しを取ると殴られたという師匠の厳しい指導の下に、己の相撲を改造、怒濤の突き押し、強烈な
ぶちかましと、のど輪で一気に攻める押し相撲を得意とし、
「猛牛」との異名を取った。特に、絶対に変化を行わない柏鵬、
佐田の山、
豊山には、11勝4敗という成績を残し、
1967年9月場所後に
大関に昇進する。鳥取県出身者の大関は、明治時代に活躍した荒岩の引退以来、58年ぶりのことだった。しかし負傷の多さから好不調の波が激しく、
1968年7月場所と
1969年3月場所の2度の優勝(どちらも13勝2敗)に輝いたものの、不本意な成績が続き、「姥桜」、「破れ桜」などとも罵られた上、
負け越し土俵に為ることも在ったため、「横綱に上がることは無理だろう」と、陰口を叩かれていた。
1972年3月場所では大関
前の山に張り手で気絶し転がされた一番が無気力相撲だとの指摘を受けたりもした。前の山はこの場所限りで大関を陥落し、琴櫻の印象も一度かなり悪くなってしまう。翌5月場所は1勝しただけで休場。ところが、この年の11月場所では14勝1敗で3度目の優勝、綱取りとなる
1973年1月場所も14勝1敗で連覇を果たし、見事第53代横綱に昇進した。横綱昇進時32歳2ヶ月は現在の
横綱審議委員会の「2場所連続優勝を原則とする」の内規が出来た年6場所制における最高齢である。当時「遅咲きの桜満開」「姥桜の狂い咲き」とも呼ばれた。大関在位32場所の長期在位(当時
豊山の持っていた大関在位記録にあと2場所と迫っていた)で晴れて横綱になったが、高齢での昇進であり、後援会などから贈られた数多くの
化粧廻しを見て、こんなに長く務まるか不安だ、ともらしたという。しかも
横綱土俵入りは短命の
ジンクスと言われる「不知火型」をあえて選んだ(土俵入りの指導者は元
吉葉山の当時
宮城野親方と
大鵬親方)。それでも同年7月場所は14勝1敗、唯一負けた相手である
北の富士との
優勝決定戦で勝ち、横綱に対する不安の声を一蹴した。しかし、体力の衰えやケガが続いた事もあってやはり長く務めることができず、横綱在位はわずか8場所(番付上は9場所)、
1974年7月場所前に引退した。ちなみに対戦力士の中で一番苦手なのが
三重ノ海で対戦成績は7勝11敗で、横綱昇進までは4勝9敗であった。