戦後、大蔵省に復帰すると、順調に出世の階段を上り、
1969年には
大蔵事務次官に就任。「大物事務次官」の要件とされる2年間の任期を全うする。同省退官後は、輸銀に総裁として
天下り、輸銀退任後には日本銀行に進む等、いわゆる「ロイヤル・ロード」を歩み続けた。
日銀総裁の座に就いた澄田の前には、
日米貿易摩擦と
円高圧力の難局が待ち受けていた。折からのアメリカの対日
貿易赤字の拡大に際して、アメリカ側は日本側への政治的圧力を強めてきていた。
1985年の
プラザ合意でドル高是正が行われ、円レート決定は完全な自由相場制に移行し急激な円高となった。
澄田は金融当局の最高責任者の1人としてこの問題への対応を迫られ、
円高不況への懸念により
金融政策を大幅に緩和した。しかし、そのことが後の
バブル経済生成の直接の引き金となった。
1987年10月の
ブラック・マンデー後にはドル暴落懸念もあって、日本経済が
バブル景気のただなかにあっても金融引締めへのかじ取りができず、結果日本経済は
日経平均株価が
1989年の
大納会(
12月29日)に最高値38,915円87銭のピークをつけるまでの過熱に到ってしまった。このことに関して、澄田が日銀副総裁の頃、ある立食パーティで倒れかかったことがあって、後輩の
竹内道雄らが緘口令を敷いた。総裁後半期の二度に渡る超低金利政策のミスと長期化も、あるいは何らかの持病の影響があったとも指摘されている
[『大蔵省権力人脈』(栗林良光、講談社) P169 ~ ] 。