沢松家は、和子から見れば祖父の時代からの
テニス名門一家だった。
西宮市にあるテニスコートつきの家で、和子と順子の2人姉妹は自然にテニスに親しんでいった。和子は
1967年、16歳の時に第42回
全日本テニス選手権と全日本室内テニス選手権で優勝し、同年にジュニアテニス選手の登竜門と言われる「
オレンジボウル選手権」の女子シングルスでも優勝を果たす。それ以後、
1967年から
1975年までの足掛け8年間で、彼女は日本国内の試合で「192連勝」の記録を樹立する。それから2年後、18歳になった
1969年には
全仏オープンと
ウィンブルドンの女子ジュニア部門で優勝し、
4大大会のジュニア2大会連続優勝を飾った。当時の日本テニス界には「アマチュア」も「プロフェッショナル」もなかったが、その中で沢松和子は日本人テニス選手として史上初の「プロ選手」になった。
1970年から
1975年まで、女子テニス国別対抗戦・
フェデレーションカップの日本代表選手を務める。
1975年の
ウィンブルドンで、沢松和子はシングルスの3回戦で第1シードの
クリス・エバートに 2-6, 2-6 で敗れたが、日系3世選手である
アン清村とペアを組んだ女子ダブルスで快進撃を見せた。決勝戦の相手は
フランソワーズ・デュール(
フランス)&
ベティ・ストーブ(
オランダ)組に決まった。大会最終日、男子シングルス決勝戦の終了後、沢松は日本人女子選手として初めてウィンブルドンのセンター・コートに足を踏み入れ、7-5, 1-6, 7-5 のスコアで強豪ペアを倒した。当時は衛星中継が始まって間もない時期であり、この試合の模様が録画でテレビ放映されたため、日本人女性初の快挙は全国に大反響を及ぼし、テニスブームが空前の規模で広がった。ウィンブルドンの前後にはシングルスでも好成績を出し、
全仏オープンでは
クリス・エバートとの準々決勝まで進み(スコア:2-6, 2-6)、
全米オープンでも準々決勝に進出したが、
イボンヌ・グーラゴングに 6-7, 5-7 で惜敗した。これを最後に、沢松和子はテニス界から引退した。