「自家優先主義」との批判もあるが、これにより結果的には260年以上続く長期安定政権の基盤を確立し、「天下泰平」という日本語が生まれるほどの相対的平和状態を日本にもたらした。
また江戸時代には、対外的には長崎
出島での
中国・
オランダとの交流と
対馬藩を介しての
李氏朝鮮との交流以外は外国との交流を禁止する
鎖国政策を採った(ただし、実際には薩摩に支配された琉球による対
明・
清交易や渡島半島の
松前氏による北方交易が存在した)。
バテレン追放令は、既に豊臣秀吉が発令していたが、
鎖国の直接的契機となったのは
島原の乱で、
キリスト教と
一揆(中世の国人一揆と近世の百姓一揆の中間的な性格を持つもの)が結び付いたことにより、その鎮圧が困難であったため、キリスト教の危険性が強く認識されたためであると言われる。またこの間、オランダが日本貿易を独占するため、スペインなどの旧教国に日本植民地化の意図があり、危険であると幕府に助言したことも影響している。中国では同様の政策を
海禁政策と呼ぶが、中国の場合は主として沿海地域の
倭寇をも含む海賊からの防衛及び海上での密貿易を禁止することが目的とされており、日本の
鎖国と事情が異なる面もあった。しかし、日本の鎖国も中国の
海禁と同じとして鎖国より海禁とする方が適当とする見解もある。