しかし、安定した幕府政治も完璧という訳ではなく、様々な矛盾は当初から内包され、次第に問題化していくことになる。とりわけ幕府財政の危機は、諸国の幕府直轄金山・銀山の枯渇傾向、
長崎における海外交易赤字による金銀の流出、
明暦の大火・大地震・
富士山の噴火などの災害復興事業による出費などから、いち早く訪れた。5代将軍となった
徳川綱吉は、
儒教による理念的な政治思想を掲げつつも、財政改革の必要に迫られ、
勘定奉行に
荻原重秀を抜擢して解決を図った。荻原は
元禄小判による貨幣改鋳(金含有率を減らして貨幣流通量を増やす)によって財政問題を一時的に解決するが、結果として
元禄期の
インフレ状況を生じることとなり、物価の高騰を招いた。また、財政以外の改革では
生類憐れみの令が知られる。
6代将軍となった
徳川家宣は、もと
甲府藩主から将軍職となったが、甲府時代から政治改革に実績のあった
側用人間部詮房や学者の
新井白石を起用し、改革を行った。間部・新井が主導した改革を
年号をとって「
正徳の治」という。綱吉時代の政策は否定され、生類憐れみの令は撤回、
勘定吟味役の創設、正徳金銀発行(
デフレ政策)による綱吉時代の財政矛盾の解決などを行ったが、将軍家宣・7代
家継があいついで早世したため、改革は中途半端に終わった。
8代将軍となった
徳川吉宗は、
紀州徳川家の出身であり、それまでの幕政を主導してきた譜代大名に対して遠慮することなく、大胆に政治改革を主導することとなった。将軍吉宗自ら主導した改革を「
享保の改革」と呼ぶ(
1716年 -
1745年)。吉宗が最も心を砕いたのは米価の安定であった。商品流通・貨幣経済の発展に伴い、諸物価の基準であった米価は江戸時代を通じて下落を続け、「米価安の諸色高」と言われた状況にあり、米収入を俸禄の基本とする旗本・下級武士の困窮に直接つながっていたためである。そのため吉宗は、
倹約令で消費を抑える一方、新田開発による米増産、
定免法採用による収入の安定、
上米令、
堂島米会所の公認など、米に関する改革を多く行ったため、「米将軍」の異名を取った。米価対策の他にも
目安箱の設置、
足高制による人材抜擢制度の整備や、江戸の都市政策(
町火消の創設、
小石川養生所の設置)、西洋知識禁制の緩和(漢訳洋書禁輸の緩和、
甘藷栽培など)、商人対策(
相対済まし令、
株仲間の公認など)などの諸改革が行われた。幕府財政は一部で健全化し、
1744年には江戸時代を通じて最高の税収となったが、税率変更や倹約の徹底により百姓・町民からの不満を招き
百姓一揆・
打ちこわしなどが頻発した。もはや米作収入に依存する財政は矛盾を解消できない段階に到達しつつあった。