一分銀 wikipedia|無料辞書
◆ 概要
形状は長方形で、表面には「一分銀」、裏面には「定 銀座 常是」と刻印されている。額面は1
分。その貨幣価値は、
金貨である
一分金と等価とされ、したがって1/4
両に相当し、また4
朱に相当した。
一両あたりの量目は9.2
匁に過ぎず、
天保丁銀の含有銀量を一両あたりに換算した15.6匁にはるかに及ばず、幕府の財政難を埋め合わせるための出目(改鋳利益)獲得が目的の名目貨幣であった。天保一分銀、安政一分銀伴に発行高は
丁銀をはるかに上回るものとなり、銀貨流通の主流となった。一分銀発行以降、市場における両単位の貨幣の流通の多くを一分銀が占めたことから、後の開港後における
小判流出の元凶となった。
◆ 天保一分銀
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天保金銀の発行後間もなく一分の額面をもつ計数銀貨の発行となったが、これは
文政南鐐二朱銀2枚分の量目4.0
匁と比較して42.5%の大幅な減量であり、
文政南鐐一朱銀4枚分の量目2.8匁に対しても約18%の減量である。銀量の減少と引換にさらに精錬の度合いを上げた
花降銀(はなふりぎん)を使用し、
勘定所役人らは表面に「
花降一分銀(はなふりいちぶぎん)」と表記することを計画したが、
水野忠邦の反対に遭い単に「一分銀」と表記し、周囲の額に
桜花を20個配置することになった
[『日本の貨幣-収集の手引き-』 日本貨幣商協同組合、1998年]。これが
天保一分銀(てんぽういちぶぎん)であり、
古一分銀(こいちぶぎん)とも呼ばれる。
裏面の「是」字の八画および九画が交差した交叉是のもので、側面の仕上げが滑らかで桜の花弁が打たれているものが天保一分銀である事が多いが、厳密には周囲の桜花の逆打ちのものの位置から判断することが定着している
[『新訂 貨幣手帳・日本コインの歴史と収集ガイド』 ボナンザ、1982年]。
公儀灰吹銀および回収された旧銀から一分銀を吹きたてる場合の
銀座の収入である分一銀(ぶいちぎん)は天保一分銀では当初鋳造高の2.5%と設定され、天保14年(
1843年)からは1.6%に減額された。また天保14年(1843年)8月17日の一時吹止めまでの期間について、『銀座掛御用留』の記録では15,153,802両を鋳造し、このとき吹替えにより
幕府が得た出目は2,430,000両としている
[田谷博吉 『近世銀座の研究』 吉川弘文館、1963年]。
また、表面に「庄」の極印が打たれたものが存在し、慶應4年(
1968年)5月20日から6月15日までの期間に鶴岡藩(
庄内藩)において、良質の天保一分銀を他領から流入する銀質の劣る安政一分銀と区別し増歩通用させるために、
鶴岡および
酒田において極印を打ったものとされ、
庄内一分銀(しょうないいちぶぎん)と呼ばれる
。打印数は酒田において30万両(推定)、鶴岡において13万両
[清水恒吉 『南鐐蔵版 地方貨幣分朱銀判価格図譜』 1996年]とされ、裏面の桜花額縁の右下側にY極印を打ったものが酒田製、左下側のものが鶴岡製と推定されているが資料による裏付けはなされていない。
◆ 安政一分銀
日米和親条約締結により
安政6年(
1859年)に開港され、外国人大使の
小判入手が目的の
洋銀から一分銀への
両替要求が急増し、貿易港周囲における市中の一分銀が払底したため、
幕府に対し一分銀の増鋳が要求された。しかし一分銀の払底は解消されず、
ハリスは洋銀を一分銀に改鋳して発行するよう提案し幕府もこれを受け入れ、同年8月13日より洋銀と同品位の一分銀が発行されることになった
[三上隆三 『江戸の貨幣物語』 東洋経済新報社、1996年]。このとき発行されたのが
安政一分銀(あんせいいちぶぎん)であり、
新一分銀(しんいちぶぎん)とも呼ばれる。
裏面の「是」字の八画および九画が交差せず、側面の仕上げが鑢(やすり)目となっているものが多いが、周囲の桜花の逆打ちのものの位置から判断する方が確実である。
◆ 貨幣司一分銀
このときのものが
貨幣司一分銀(かへいしいちぶぎん)と呼ばれ、裏面の「常」字の第一〜三画までが「川」の字に近く、
川常一分銀(かわつねいちぶぎん)とも呼ばれ、鋳造期間が明治に改元された後も続くことから
明治一分銀(めいじいちぶぎん)とも呼ばれる。また従来の一分銀に対し一般的に質が劣り
亜鉛を含むものがあり、
亜鉛差一分銀(あえんさしいちぶぎん)と呼ばれることもある。ただし明治一分銀とされるものにも銀90%程度の良質なものも存在し、その詳細については不明である。
明治元年中、
東京において300,508両2分、明治元年7月〜2年2月にかけて
大阪長堀において766,325両が鋳造された
[瀧澤武雄,西脇康 『日本史小百科「貨幣」』 東京堂出版、1999年]。
「川常」であることまた逆の桜花の位置で安政一分銀と区別されるが、これも諸説あり現在のところ確定的でない。
二分判、一朱銀および
天保通寳と同様に藩および民間による贋造が横行し、
久留米藩では明治元年(1968年)9月から翌年6月までの間に3万両にも及ぶ鋳造を行ったとされる
[澤田章 『明治財政の基礎的研究』]。
◆ 仕様