19世紀にプラハが爆発的な発展と近代化を進めるようになると、広場周辺の再開発が始まり、現在まで残る建築物が建てられるようになった。広場の両側に建っている建物の多くは19世紀後半から20世紀初頭に建てられたものである。
この広場がヴァーツラフ広場と改名されたのは、
1848年の
カレル・ハヴリーチェク・ボロフスキーの提案による。この年、民族主義者の呼びかけによって広場にあった当時のヴァーツラフ像の下に集まった人々が軍隊と衝突していた。チェコの民族主義の伸張に合わせて国民博物館や
ヨゼフ・ヴァーツラフ・ミスルベクのヴァーツラフ騎馬像が設けられるようになり、以後この広場はチェコ史の節目節目に必ず登場するようになった。