尚、ハリプンチャイ王国を建てた民族である "Mon" も
モン族と呼ばれる。東南アジア研究者の間では蔑称を避け、ミャオ族をモン族と表記することが一般的であるため、著作などでは必ずどちらのモン族について言及されているか断りが入っているのが普通である。以下は各言語における対応表である。
中国の伝説によれば
紀元前26世紀頃、
漢民族の原型である華夏の民族の君主・
黄帝が
蚩尤の民族の討伐作戦を行い、?鹿(たくろく、
河北省と
遼寧省の省境付近)で破ったことがあったという。戦いは黄河の台地で行われた。華夏はその討伐地域の悪条件にも関わらずコンパスを用い正確に蚩尤の民族を破る事ができた。一方で敗れた蚩尤の民族はミャオ族と
リー族に分裂した。ミャオ族はこの後、南東方向にむかって移動を続けたという。ミャオ族は
漢民族からは「蛮」と見なされ差別されたが、一部は
周王朝時代に華夏民族と同化し、一部の部族は春秋の強国である
楚や
呉の建国に関わった可能性がある。中国の学会では楚は異民族の国とされているが、現代のミャオ族と、先史時代の伝説に記載された三苗や、楚や呉を構成した民族との関連性は現時点では定説はない。現代のミャオ族と繋がるのは、漢代の長沙・武陵蛮以降と見られている。
漢人がこの流浪の民を苗(ミャオ)と呼び始めたのは
先秦時代であった。そのころ苗(ミャオ)族は、苗民(ミャオミン)、尤苗(ヨウミャオ)、三苗(サンミャオ)と呼ばれ、
揚子江流域に住んでいたが、中国の攻撃を受け南方へ移住を始めた。
六朝時代に揚子江南部を支配していた南朝は北方民族の侵入に苦しめられており、あまりミャオ族を歓迎しなかったが、
五胡による揚子江北部の破壊により、ミャオ族が大量に南朝の領域に入ってきた。中には漢民族と同化することもあったという。
一方、中国南方各地で武装蜂起が起こっていた
元末の
1357年、
楊完者(ヤン・オルジョイ)率いるミャオ族の軍団が元朝の公認を受けて、
徽州にいる
朱元璋の軍を攻撃したが撃退された。その後も各地で暴れまわったため、楊完者は付近の
張士誠に滅ぼされた。残ったミャオ族は朱元璋に降り、家臣
?愈の軍などに組み込まれたが、その後も反逆が相次いだという。