1819年、ブルシェンシャフトの急進派
カール・ザントが、保守反動的とみなされた劇作家コッツェブーを暗殺する事件が起こり(カール・ザントは死刑に処される)、これを契機としてメッテルニヒは主要諸邦の代表を
カルロヴィ・ヴァリ(独・カールスバート)に集め、ブルシェンシャフトに対する本格的な弾圧を決議(
カールスバート決議)した。(この際、連邦議会に諮る前にこの非公式な会談で連邦の方針が決定されており、ドイツ連邦における主権国家の連合体という理念が形骸化していることが明白になった。)その後もブルシェンシャフトは存続し、
1848年革命にも積極的に関わっている。自由主義的なドイツ統一を目指した
フランクフルト国民議会においても、ブルシェンシャフト関係者の一部が議員になっていた。ドイツ統一後には、ブルシェンシャフトの一部が排他的な民族主義へと傾き、
反ユダヤ主義を標榜するなど、かつての自由主義的な要素は失われていった。そのため、20世紀前半にはナチスの主張に傾倒するものも多かった。