ニューギニア島は、日本から真南に5,000キロ、
オーストラリアの北側に位置する
熱帯の島である。面積は77万平方キロであり、島としては
グリーンランドに次いで世界で2番目に大きい。脊梁山脈には4,000メートルから5,000メートル級の高山が連なり、熱帯にありながら万年雪を頂いている。19世紀の
帝国主義の時代、ニューギニア島は西半分が
オランダ領、東半分の北側が
ドイツ領、南側が
イギリス領に分割された。その後1901年の
オーストラリア独立に伴って旧イギリス領はオーストラリア領となり、
第一次世界大戦後は旧ドイツ領がオーストラリア
委任統治領となった。1942年当時、ニューギニア全島のほとんどは
熱帯雨林と湿地帯によって占められ、人口密度は1平方キロあたり2人以下で人口調査ができないほどの未開の地であった。沿岸部には
ポートモレスビーなどの小都市が存在したが、山間部には狩猟・採集や、
サゴヤシの
澱粉質である「サクサク」の採取、
芋類の畑作などによって生活する原住民が居住していた。
連合軍にとっても、ポートモレスビーはオーストラリア本土の最後の防衛線であり、絶対に守り抜かねばならない拠点であった。また、
フィリピンから脱出してオーストラリアに拠点を置いていた
ダグラス・マッカーサー大将にとっては、オーストラリアからニューギニア島北岸を経由するルートは、フィリピンを奪還し東京へと至る対日反攻ルートの起点でもあった。
1942年3月7日、日本軍がラエとサラモアへ上陸してニューギニアにおける本格的な戦端が開かれた。
ニューギニアの原住民は日本軍と連合軍の双方から過酷な仕事を命じられながら忠実に物資の輸送や道案内を行い、負傷者の面倒見に一役買った。また、両軍の
スパイや
民兵として活躍する者もいた。中には逃亡する現地人もいたものの、日本軍から「まじめで忠実」と賞賛され、連合軍からも黒い天使(
Fuzzy Wuzzy Angels)と呼ばれた。ただし、現地人は食料よりタバコを欲しがるということで、日本軍では訓練された台湾の高砂族(詳細は
高砂義勇隊を参照)に対する評価の方が高いケースもある。
戦争末期に日本軍が分散自活の体制に入ると、原住民の中には連合軍と通じて日本兵を襲撃する者も現れた。ジャングルでの行動に慣れた原住民に対して、衰弱し少人数に分散した日本兵はなすすべもなかった。一方で、食糧採取などにおける原住民の協力なしには、日本兵の多くは生きながらえることはできなかったであろうことも事実である。