当時本拠地球場を持たず、試合のたびに各地を転々としていた中日球団のため、空襲によって焼失した軍需工場跡地に建設することが決まる。昼夜兼行の突貫工事で着工から2ヶ月足らずの
1948年12月2日、収容人数23,000人総木造スタンドの
中日スタヂアム(中日球場)が完成。経営は当初は中日球団と一体化していたが、
1951年1月に球場経営を分離して「中日スタジアム株式会社」を設立、以後の運営は同社が担った。
設計にあたっては当時の
クリーブランド・インディアンスの本拠地であった
ミュニシパル・スタジアムを参考にしたという。第1号の
ホームランは1948年12月2日に行われた東西対抗戦で、阪神の
藤村富美男が左翼へ打ち込んだものであった。客席は今日のスタンドというよりは
見世物のやぐらや足場に近い代物で、木造のため観客が足を踏み鳴らすとガタガタと大きな音がした。さらに観客が弁当の空き箱などにくわえ、タバコの吸殻を捨てたことによるボヤが度々発生した。このためスタンドの各所には消火用のバケツと箒が用意されていた程で、球場側も火災の発生には神経質になっていたことが窺い知れる。
そして
1951年8月19日の午後4時前、
中日-
巨人19回戦の3回裏中日攻撃中に、ネット裏内野指定席上段からスタンド火災が発生。火は折からの強風にもあおられ瞬く間に燃え広がり、午後5時40分の鎮火までに球場がほぼ全焼した他、正面スタンド入口脇の球場事務所、
熊谷組の事務所、駐輪場、周辺の民家4戸、工場3棟も全焼。満員の観客(この中には後に中日に所属する
高木守道がいた)、両軍の選手、関係者から内野席を中心に死者4名、治療を受けた重軽傷者318名、治療を受けずに(受けられずに)帰宅した負傷者多数を出す大惨事となった。この日の中日先発で戦時中に空襲を経験していた
杉下茂投手は、火の手を見た瞬間「ああ百年目、俺ももうだめだ」と思ったという。出火原因は床板の隙間から下に落ちたタバコの吸殻が、床下にたまっていた紙屑に引火したためと見られる。その後予定されていた中日球場での公式戦は
鳴海球場を中心に、
刈谷、
浜松、
四日市、
松阪、
滋賀県の
彦根、
神奈川県の
茅ヶ崎の各球場にそれぞれ振り換えられた。