ワイマール時代にブルジョア諸政党の分裂が
ナチスの伸張をもたらしたという反省から諸政党の大合同が目指され、その際結党の理念となったのがキリスト教博愛主義であった。しかし、新設の政党のため各地で発足した同党の組織は政策・組織などもバラバラであった。西側では
1947年に
コンラート・アデナウアーの主導下に作成されたアーレン綱領が党としての一体性をもたらしたが、組織としては
1950年まで全国指導部や党首をもたなかった。東側では主要な指導者であったシュライバー、ヘルメスが1945年にソ連占領軍により解任された後、
ヤコブ・カイザーが指導者となった。カイザーはアデナウアーに並ぶ理論家・指導者であり、アデナウアーの西側偏重・東西分裂促進的な政策に強く反対したが、彼も1947年にソ連軍により解任され、西側に亡命した(後、アデナウアー政権で全ドイツ問題相となる)。カイザーの解任によって東側のCDUは
ドイツ社会主義統一党の完全な
衛星政党となり、
東ドイツにおいてはまったく無力な存在であった。東西統一後、東側の党はようやく西側と合流した。
コール首相は東西統一の首相として名声を得たが、16年におよぶ
ヘルムート・コール政権が、1998年の
連邦議会選挙で野党のSPDに敗北して政権を失うと、コール氏の首相在任中の闇資金疑惑などもあって支持が低迷。
2002年の
総選挙でもSPDが支持率を落としたにも拘らず政権を奪還できなかった。しかし、SPDの
シュレーダー政権の下でも失業問題が改善されず、経済も不調なことなどから国民の支持を集め、各州議会の選挙では次々にSPDを破るほどになった。
2005年、シュレーダー首相が、連邦議会の解散に踏み切った際には世論調査でも
自由民主党(FDP)と合わせればCDU/CSUは過半数の支持率を得ていた。しかし、選挙戦終盤になって勢いが失速。
9月18日の
総選挙では、CSUと合わせて第1党にはなったものの改選前より議席を減らし、SPDとはわずか3議席(その後、候補者死亡により投票が繰り延べられていた
ドレスデンの選挙区で勝利したので4議席差)となり、勝ったとは言いがたい状態になり、FDPと合わせても過半数に届かなかった。このため、
緑の党と連立交渉を行うが失敗。結局SPDとキージンガー政権以来の「
大連立」を組んで、
アンゲラ・メルケル党首がドイツ初の女性首相となった。しかし、基本政策の違う左右連立での政権運営は厳しいものになると予測されている。